rainysのブログ

憎しみの日々

とか

物語とかの影響で異性との出会いに憧れていたとしても、それイコール異性愛者であるとは限らないよなぁ。あらゆる作品に必ずと言っていいほどウザいくらいに恋愛要素があるこの世界で、フィクションチックな恋愛に憧れを持っていたとしても、性愛者とは限らないし。

実際のところ確信を持って「恋愛である」と言える何かを感じ取らない限り、その人が恋愛する人間であるかどうかは判断出来ないんだよな。他人から押し付けられた「恋愛感覚」で、モヤモヤしつつも「恋愛なのかなぁ?」って思ってる位ならば、それは違うとも言えるわけだし。

自分を異性愛者であると疑っていなかった人が、同性に恋愛することによって同性愛者だと気付くって事もあれば、いつまで経っても恋愛する事がなく無性愛者なのでは?って思う事もある。早い段階で気付ける人ばかりじゃないし、一生異性愛者だと信じたまま、恋愛する相手に出会えなかっただけだと思って終わる人もいるんじゃないだろうか。

セクシャリティって自己形成にそれなりに影響するし、異性愛至上主義な現代社会は、自己形成に関して物凄く悪影響な社会だよな。まあ、これに限った話でもないけど。

まあ、いっそ「他人を差別する側に立てる人間」になる事こそが正しい成長と言えるのなら、別に被差別者の自尊心や人格なんてどうでもいいよね。寧ろ、文句も言わずに泣き寝入りしてくれるように教育する事が何よりも大切な気がする。

 

かぐや様は告らせたい、段々「お可愛いこと」って言わなくなって微妙になってくるなぁ。ギャグのキレは文句無しに良いと思うから見てられるけど、作品から伝わってくる作者の人間性は嫌いだわ。

「お笑い」ってこの世界が辛い人にとっての救いにもなるものであって、変人やどうしようもない人こそが輝くが故に、元気を貰える面があると思うんだよな。対してこの作品は、「能力主義」と「努力神話」を強く強く肯定してて、現代社会に辟易してる人や生きるのが辛い人に、その現代社会の悪い所を強く意識させる傾向がある。

人を選ぶ作品に思えるけど、現代社会の「生き辛さ」を作り出してる多数派にはよく刺さるから、人気作品となっているんだろう。誰かを生き難くしてる人達には本当に相性が良い作品だと思う。

 

友達ゲームを飛ばし飛ばしだけど何となく見てるんだが、眼鏡は恨む相手間違えてないか。恋愛とか言うもので何でも台無しにする生粋のクズを、本質を見ずに信じちゃってたのはお前の方で、クズなのもどうしようもないのも恨むべきなのもお前が友達だと思ってた奴の方で、女の子はそんなに悪かないだろ。

まあ別に、自分がそいつと友達になる事を選んだから自分の非を認めたくないって気持ちも、友達だから悪いと思いたくないって気持ちも分からんでも無いけど、まず自分の友達が人生の最優先を恋愛だと思ってるドクズであると受け入れた方が良いんじゃないか。逆恨みされてる女の子が可哀想なんだが。

まあ女の子に何らかの腹黒さがある可能性も示唆されてるが、あったとして眼鏡の友達がクズであることが揺らぐ訳じゃ無いからな。家族や友人を人質に取られて強請られたとかなら可哀想だけど、誘惑されて女に貢いだんなら、貢ぐ奴がクズである事は揺るがない。魅力的な女が居たから他のものは全部ぞんざいにしました、なんて奴がクズじゃない道理はない。どう考えても眼鏡の友達が1番クズ。